日日是遊行

◎日日の暮らしを日記などオート・ライティングする場とすれば、日日がそのまま遊行となる。家なるものにとどまることなく、栖とともに遊行すると見立てればよい。すると幾分身が軽くなり、とどまるために求めることも少なくなる。オート・ライティング(そろそろオート・ライティングをあらわす和語が欲しい。「風筆」あたりか)を気に留めると、日日書くことも変わるだろう。『枕草子』もそのようであったのではないか。『枕草子』にはおよそ「とどまろうとする衒(てら)い」が見られない。

◎SNSやネットニュースなどの書き振りは、「とどまろうとする衒い」に溢れ、どうしても「承認」や「消費」の意図が透けて見えてしまう。昨今の本も同じで、「われを連れ去ろうとする書き振り」にお目に掛かることがついぞなくなった。本の衰弱ぶりはそんなところにあるのだろう。

◎「日日是遊行」は書き振りにこそあらわれる。われも本も風のようであれ。

オート・ライティングとしての俳句

◎「クレオール」というと歴史的に植民地や支配構造が浮かびあがり、さらにクレオールへの消えないオリエンタリズムが囁かれるが、人類学社の今福龍太はこれを鮮やかに反転させた(『クレオール主義』ちくま学芸文庫、2015)。クレオールのなかに暗黙のうちに潜んでいる言語や民族や国家に対する帰属を捨て、われが自由に地を移動し、そこで出会う多様な文化とわれの文化の境をクレオールとして捉える。移動するのはなによりもわれであり、帰属や支配を受けることなく、その境に在ることを受け入れる。そしてそこでの出来事を書くことをオート・ライティング(auto-writing)と呼んだ。これは「automobile」(自動車)と「autobiography」(自伝)を重ねてのこと。さらにそれが降り積もるとそれが数々の言説で彩られた「歌枕」が立ち上がる。

◎松尾芭蕉は、元禄二年(1689年)三月二十七日、西行の五百年忌にあたる年に、門人曾良とともに江戸の深川を出立し、西行の足跡や歌枕を訪ねる旅へと向かう。そしてその行く先々で、句をしたためる。これはまさにオート・ライティングそのもの。旅をしつつそこに在るわれを詠み、またわれを去っていく。十七文字というのは刹那のことのは。もちろん後々推敲もあろうが、その刹那の思いは変わらない。芭蕉もまさにクレオール生き、旅のなかにあった。

◎俳諧を経て芭蕉に結ばれる俳句は、まさにオート・ライティングの極みであり、いまもそれが吟行のなかに生きている。それを日日までにいかしたいもの。

環世界たちの調べ

◎環世界は完全に分たれているのではない。ヤーコブ・フォン・ユクスキュルの『生物から見た世界』を見ると、生物はみな自己世界に暮らす孤独な生き物と見られがちであるがはたしてそうか。環世界と環世界のあいだのぼやけが、分かれつつ合わさる按配を生んでいる。蓮のもつ環世界と丸花蜂のもつ環世界の境がぼやけていて、そこに想像力をはたらかせる(気配を受ける)あ遊びがあるからこそ、蓮は実を結び、丸花蜂はご馳走にありつくことができる。この微妙が棲み分けを生み、共在を生む。倅点(南方熊楠)の結ぼれは単に線で結ぶことではかなわないそんな結構を持っている。ユクスキュルはそんな按配を「対位法」とあらわした。われらはそんな百彩の庭に暮らしている。

◎環世界はそれぞれの環世界にとどまらず、結ばれ合う環世界としてそこに在る。いつも環世界たち(Umwelten / ウムヴェルテン )としてある。

茶ノミ 茶カハ

◎柳宗悦に「茶ノミ 茶カハ」という偈がある。およそ「茶だけを茶だと思う人は、茶を茶にしない」という意であるが、ここには逸れていく感覚、境をふらつく感覚がある。ふらついているのはいまそこにぶら下げられている「茶」で、それはまことにおぼつかなく、あてどなく、頼りなく、先に「何か」が待っているわけもない。ただ「そのまま」と「このまま」のあいだでゆらついている。彼が「他力の美」についてことばにするとき、同じように旗竿に「他力」を吊るしてぶら下げる。「それ」は「他力」ではあるが「他力」ではなく、「他力」の外(ほか)にあるただその微妙のあわい。「そう、それそれ、まてまて、これこれ」という感覚。「茶」は「非茶」に対しているわけでなく、「他」は「非他=自」に「対」しているわけでもなく、ただそのあいだ、あわいに揺れているだけのこと。それが「それ」になったり「これ」になったりする。それが「うつくし」であり、「またたび」であるということ。「美学」と云うてしまへば逸れてしまう、「巡礼」と云ふてしまへば取り逃す、そんな按配にある。

◎それが偈となり、花となる。そのあたりが他所(大陸など)の感覚と逸れているところ。それがたちまち大気にまぎれる声が、調べが、歌からの贈り物。いま、風はどのあたりを吹いていようか。なんともおぼつかない。

いま、ことばは

◎いま、ことばはいったいどうなっているのか。AIの浸透につれ、ネットのなかはAIが発することばで溢れるようになった。ことばがことばからただ増殖していく。気がつくと周りはそんな「消息なきことば」で溢れかえっている。どうやら声でも文字でもないプラスチックなことばが漂っている。そろそろ自然は耳を塞ぐだろう。鳥も風も飛び去っていくだろう。

◎プラスチックに遊びはない。いま見えない洪水のさなかにいるのかもしれない。洪水のなかで宙ぶらりんで「統計的」に造り変えられていくもの。そして押し流され消えていくもの。持ち運び可能な洪水はいまどこで起きているのか。もうすでに枯野に佇んでいるだけなのか。風は吹いているのか。

◎雉鳩の啼き声のはじめの音と終わりの音はなぜ同じなのか。そこに意味はあるのか。それを知ることに意味はあるのか。意味ははたしてどこにあるのか。象は統計をとっているのか。統計をとる象に意味はあるのか。

◎これらのことばをAIにプロント替りに与えると、ここにあることばを解説したり、過去の議論と結び合わせ展開し、さらに気に入られようとする。だがそのことばに意味はなく、ただことばとことばを繋ぐために足りないことばをそれにあてようとするのみ。それによってやや暴走気味の頓珍漢な「返答」とする。おそらく都市の骨格もそのようにして僅かなことばから組み立てられてきたのではないか。都市はすでにすべてノイズである。それも生きるために大切なカオス的ノイズではなく、廃棄物としてのノイズ。そこに思わず「人格」を感じてしまうのも、都市に暮らす人が同じようにわれを組み立てているから。そこには里のような瑞々しさはない。ただ枯野がひろごるばかり。

◎アシモフが「ロボット三原則」を掲げたとき、アシモフの目にはロボットがどのように映っていたのか。

三律条々

一、本は茶室のようであれ。
一、読書は風のようであれ。
一、物語は息のようであれ。

◎誰も此の身から出ることは叶わない。利休は茶室を此の身のうつし《器》とし、其処を出入りした。それが待庵だった。そのなかを此の世そのものが寂びるように過ぎていったものだ。利休には人並みに欲や野望もあったが、それを匿すこともせず、ただそのままに受け入れ佗びた。そして或る時待庵から暇をもらった。

◎本は、此の身を擬いた茶室のように組み立てられ、此の身の内を擬いた茶会のように設られる。情報を携える《メディア》はこのようにしてはじまった。はじめは文身や土器・着物の文様として、貝殻などの飾りとして、竹や紙にことばのうつしを載せて、住居や建物として、此の身をうつし抜いていった。そして此の身の間を行き交う花鳥となった。

◎読書は、そんな本という茶室の茶会に招かれ、其処を吹く風を浴びる。浴びる振りをすることもできようが、ただ此の身を任せ浴びるのがいい。すると此の身のなかへと何かが到来する。その消息を味わい、此の身に暫し留める。そして蝸牛のように此の身とともにそろり歩いてゆくがいい。

◎やがて此の身の内に、息のように物語が生まれる。それは此の身の内に生じる苔のような物語。この物語をことばで、歌で、舞で、さまざまなる姿をもって此の身で伝え、伝えられてきた。そこに生死混淆の消息がある。

書物を庭に埋めるとき

ふと 庭が寂しそうと思った 別段花が咲いていなかったわけではなく 梔子が枯れかかっていたわけでもない ただ三日月の光を浴びている庭が どこか唇を結んで天を仰いでいるようだった それで書斎の奥からいまは触れることもなくなった書物を十冊取り出し 錆びかけたスコップで庭の隅に穴を掘り 丁寧に並べて埋めた 火葬にするには偲びなかった ただゆっくりと土に還っていけばいい そんな気がした それから六日たった夜半 どこからかよい匂いがして目が覚めた 上着をつっかけ部屋のなかをあたるが 部屋のなかの匂いではないようだった 障子が月明かりでぼんやりとかがやいている 障子を開け 縁側にでて硝子戸を開けると 匂いが渦となって身体をつつみこんだ 草履を引っ掛け庭のなかを廻る どうやらこのあいだ書物を埋めたあたりから匂ってくるようだった どうやらボーヴォワールの『おだやかな死』を埋めたあたりか 地面に鼻をこすりつけるようにして見てみると なにやら透明な芽が出ている いったい何だろうと見ていると そのまま芽はぐんぐんのびつづけ やがて一本の大木となり 月の光に透ける実をつけた 少し手を延ばせば届きそうなところにぶら下がっている実をもぐと 甘酸っぱい匂いが鼻のなかにひろがった 手のなかの実はやはり透明であったが 月の光をうけておおよその輪郭をあらわにしていた その実は歪んだ瓢箪のような手触りだった 皮膚の隙間に引っかかるような感触が 刺々しい小動物を思わせ 夕空にやってくる浮浪の雨雲のように躊躇いをおぼえた 鼻のあたりにあててみると 臭気のなかに宝石の原石のような独特の匂いが混じっている 思わず両の親指を軽く押しあてると 親指はそのまま沈みこみ よい匂いが果汁とともに放たれた 果汁を溢すまいと唇をあてて吸いこむと 一瞬 蓮の花に坐って悲嘆に暮れる一人の老女の姿が浮かび上がった そのとき 何か毒気を吸いこんだように胸のあたりが苦しくなり 思わず瓢箪様の実を落としてしまった 実は地に落ちる前に蒸発するように消えた 胸の奥の悲嘆が夕立のようにひろがり 身体のすべてを染め さらに庭から家から天までをも呑みこんでいった 身体がすっかり天に埋めこまれてしまっても 悲嘆を止めることはできず 身体がそのまま天に空いた穴となり 冷たい古代の風が吹き抜けていった この底なしの悲嘆がいったいどこから生まれたのか知る由もなかったが それはけして潰えることのない悲嘆となって風のように蹲っていた すでに自分は天の隅々にまでひろがっていて もはや身体を知ることすらできない どこからかあどけない声のわらべうたが聞こえてくる どこかで聞き覚えのある声だがどうにも思い出せない やがてわらべうたと天の境も曖昧になり トグロを巻くようになる そして月が天頂に差し掛かったと思ったとき ぱちんとはじけ のっぺらぼうの無がひとつ 降ってきた

無辺浄土

無辺の浄土に 六枚の花弁をもつ一輪の花が咲く アルカシヤの花は小さく小指の先ほどしかない いまにも降り出しそうな空の下で風に揺れている その根には多様な菌が集まっていて 土という存在の在処をただ黙々と紡いでいる 根から菌へ 菌から菌へと運ばれるその小さな手紙は伝文があるわけでも 目的があるわけでもなく ただ一欠片の記憶を光らせている アルカシヤの根は花の器官でもあり 虫の器官でもあり 土の器官でもあり そのたよりなげな根は夜に紛れるように 土に紛れるように 呼吸するように 旅するようにのびていく 別にのびたいわけではない ただ器官としてそこに在るだけのことだ 根はのびもすれば 腐りもすれば 土竜や蚯蚓に食べられたりもする 腐った根は菌たちのご馳走になったり 土になったりもする 土竜や蚯蚓に食べられた根は分解され 土竜や蚯蚓のなかの根となったりもする こうして根は ここかしこで生まれたり 育ったり 腐ったりしながらも 相も変わらずひろがっていく 時折 あちらからやってきた根と会うこともある どこかの花や 草や 木の根であることもあるが 根と根が一旦結ばれれば もうそこに区別はない それははてしのない祝祭だ 祝祭がはじまって もう三十五億年ほどになろうか そろそろ根も此の星の隅々に行き渡り たったひとつの浄土となっている 浄土はいまも生まれつづけ いまも死につづけ ただ祝祭の旋律に耳を傾けながら ただ此処に在る