とある町にさしかかったとき 籠目にすっかりとらえられてしまったような 妙な胸騒ぎに襲われる それは切れかかった雲にも 朽ちかけた柱にも似ていた ギュスターブの森を抜けたとき ふと月が翳り そこにたよりない町の影がにじんでいた 誰かに呼びとめられたような気がして後を振り返ったが 森のすがたはかき消えていた まるで折り紙のなかを歩いているようだった 足の感触もぺらぺらであったし うっかり壁に寄り掛かろうものなら そのままくしゃりと町が倒れてしまいそうだった 路地になにやらぼんやり光るものがある 足をとめて見ると折り紙でできた歯車風の花のようで 通りすぎようとすると アネモイ と声がする 思わず足をとめると風が吹きかかり その花は風に運ばれていってしまった しばらく歩いていくと 高い塀の上に立つ猫のような折り紙がこちらを見下ろしていた 通りすぎようとすると バステト という声がして 猫の折り紙はひょいと塀の向こうに消えてしまった 雲間からふいに月の光が射したとき 鏡を持ったもののすがたが辻に浮かびあがったが はたしてそれも折り紙であった 辻にさしかかったとき 月が雲に隠れ ツクヨミ という声を残してそれは忽然と消えてしまった 足元がたよりなく なんどもつんのめって倒れそうになる いったいこのたよりなさはなんだ これが存在のたよりなさというものか こどもっぽい乾いた笑いが肺の奥からこみあげてくる いろいろなつくられた思い出が浮かびあがりかけたとき びゅん と大風がやってきてそのまま巻き取られてしまった 気がつくと ギュスターブの森の入り口で 森に入ろうかどうか 上着の埃をはらいながら逡巡しているところだった どこからかわらべうたが聞こえてくる
砂漠の歌祭文
どこかで口笛を聞いたような気がして目を覚ますと そこは砂漠のなかの遺跡で 青白い月が掛かっていた ゆっくり立ち上がり砂を払うと 遺跡の朽ちかけた柱の影で青いターバンを巻いた男が 古いギターの調弦をしていた 影をなぞるとトゥアレグ族のエムドゥ・モクターのようだった 男はやがて琵琶のようにギターを掻き鳴らし 月に捧げるようにタマシェク語で唄いはじめた ふいに脳裏に Asdikte Akal という文字が浮かぶ 少し掠れた声で 呪術のように同じ旋律が繰り返されると あたりの砂が舞い上がり 男をつつむようにして踊りはじめる ことばの意味はまるでわからないが なぜか胸がしめつけられ こどもの時分に裏山から見た夕焼けを思い出していた 呪師の歌祭文はつづき やがて砂が遺跡をおおい 天をおおうと 砂のあいだから 遠くからやって来た隊商たちが酒宴を繰りひろげる音や 薪が爆ぜる音が聞こえてきた やがて青衣の歌祭文が遠のいていくと 隊商たちの喧騒も砂のあいだにまぎれ 舞い上がっていた砂が細雪のように遺跡に降り積もっていった ふいに静寂が訪れ 夜の冷気が頬を撫でた 遺跡の上に掛かっていた月の姿はどこにもなく ただ残り火の香りが鼻をついた 青衣の男はもう出立してしまったのだろうか 忘れられたこどものような心持ちで身を竦めていると どこかで鳥の羽ばたきの音がして その奥からせつない口笛がもれてきた 目をつむると瞼が熱かった そのままなぞるように口笛を吹くと 一陣の旋風がやってきて無重力のなかに攪拌され 気がつくと 冷たい蒲団のなかで歯を鳴らしていた
椋鳥の群れ
ある秋の夕暮れのこと 町に散歩に出掛ける 六丁目の交差点に差し掛かったとき 背後で警笛が鳴り 鉄狼のような路面電車が鼻息荒くすぎていった 八百屋では切れかかった裸電球の下でお得意さんに玉葱を手渡しているところで 暮れかかった上空を椋鳥の群れが水面を叩く雨のような音をたて 破れかけた扇よろしく舞っていた 八百屋の前を通りすぎようとしたとき 店の奥から相撲中継の悲鳴にもにた歓声が轟き 店主のささくれだった手から小銭が落ちそうになった そのとき背後で捻れた折り紙のような気配がして 振り返ると灰褐色の猫が悠然として歩いていたが 道行く人は誰も気に留めていないようだった そのとき警笛が鳴り 鉄狼のような路面電車が鼻息荒くすぎていった 八百屋では切れかかった裸電球の下でお得意さんに玉葱を手渡しているところで おや この光景はどこかで と思いかけると 道端に紛れていた托鉢僧が 左手の中指を立てながら 一水四見 と呟いた いったい何事かと振り返るがそこに托鉢僧の姿はなく 暮れかかった上空を椋鳥の群れが水面を叩く雨のような音をたて 破れかけた扇よろしく舞っていた じっと手を見るがどうにも落ち着かない そのまま手が椋鳥の群れに紛れてしまいそうで 足が動かなくなる 小銭の落ちる音がする ある若い哲学者が世界は存在しないといきまいていたが いま 世界が裁断機に掛けられつつあることを 誰も知らない
冬の蝶
ある夜半すぎのこと 干涸びた背中だけになってしまった亡霊が書斎の椅子に座り 半開きの窓から入る風に撫でられながら 歪な爪を立て 緑暗色の書物の頁に見入っている ふと雲の切れ間から射す月光がよぎったとき 埃で曇った硝子に古代の紋章のような影が浮かんだ どうやらそれは掌ほどの大きさの蝶のようだった もはや目も失い それを見ることは叶わないが かつて背中の肌だったささくれがそれを感じた 季節はずれの蝶は ぼろぼろになった羽根を庇うように硝子に羽根を添えている 遠くからやってきた渡り蝶であるのかもしれなかった きっと嵐にでも巻きこまれてしまったのだろう なかにいれて休めさせてやりたいが 生憎月光が射したとき 手と爪の残骸も夜のなかに散ってしまった 開かれたままの書物が だらしなく机の上に在った 次に鳥が啼いたとき 地図のように残された背中とともに消えなければならない その先は何もない はじまりもおわりもない無がただ口を開けて待っている ホーフマンスタールが死と隣りあわせで見ていた夢が気がかりだった たしかこの書物に記されていた 浄化されたい面持ちでここにやってきたが すでに手も爪も失い もう望みも潰えてしまった そのとき風がそよと吹き 窓硝子にはりついていた蝶が 書物の上にぽたりと落ちた そして宇宙が終焉を迎えるように ゆっくり書物がたたまれた そのときかすかに青い光がもれ 背中を照らした 遠くで鳥が啼いたかと思うと ふいに線だけとなった世界がはたはたとたたまれていき 地図となった背中も吸いこまれていった 緑暗色の書物の行方は ようとして知れない